ヤッホー さんによる書き込み:
私のちょっとした一言が、Discussionsのあり方や最近の人の気質など多岐にわたった議論になってしまって申し訳ありません。
いえいえ。人によって色々な考えや印象、感想があるのは当然です。残念ながら文字だけのコミュニケーションでは一度形成されてしまった印象や悪感情はなかなか軌道修正できない傾向があることではあります。しかし、幸い、今のところ皆さん紳士的に議論をされようと努めてらっしゃるので、「雨降って地固まる」になれれば却って幸いだったということになるかもしれません。
私も以前に立てたスレッドで、レスを頂いてから(言い訳ですが)仕事が忙しくて検証が完了できずに2週間が過ぎた頃に、返信がないとのご指摘を頂きました。
そういうことは現実によくあることです。しかし、日常生活の付き合いだって、例えば、友人や知人から「あれ、どうなってる?」と訊ねられることはあるでしょう? そうしたら「あ、ごめん、ごめん。うっかりしていた。いや、実はここのところ忙しくてつい...。そうか、自分では気付かなかったけど、もうそんなに経っちゃってたんだ...!」と言う具合に説明しますよね? それに対して友人も「あ、なんだ。そうだよねぇ。そういうことあるよねぇ」と答えて、その問題は終り。別に関係がぎくしゃくするわけでもない。ネットだってそういう日常生活と同じで、「あれ? あの人、質問だけして、その後、何を書いても返事ないけど、どうしちゃったんだろうねぇ?」と書かれたら、別に忙しければすぐさまでなくても、時間が取れた時に「いや、実は忙しくて...」と書けば「なぁ〜んだ」で済む話だし、それでコミュニケーションも進むじゃないですか。仲よくなるきっかけになるかもしれないし。それを「そんなことを訊いたら、相手に対するプレッシャーになる」とか「そんなことを要求すべきじゃない」なんて言い出したら、却って当人も出難くなっちゃうかもしれないし。だいたい、こういう日常的なやりとりはそんな“大げさ”なものじゃあないでしょう。と言うか、それって、最近のどこまでも“空気を読む”文化の流れに思えてしまいます。善意の指摘ではあっても、そうやって空気を読み続けて行くと、結局、心配で心配で何も言えなくなってしまう。私自身は、どんどん互いに書き合って、それで互いに「あ、そういうことだったんですね!」という具合に軌道修正して行けば良いと思っています。ただ、こういうところの書き込みは、互いに思い込んでしまって、なかなか軌道修正ができなくなるというシステム的な問題があるような気もします。難しいですよね。
今回の件に関して言えば、空港に問い合わせて問題が解決したか(やっぱり一言お礼があってもいいかとは思いますが)、
私は、“お礼”なんて欲しいと思ったことは全くありません。それどころか、よくお礼の行列が並ぶスレッドがありますが、却って煩わしく感じます。今回だって「礼を言え!」と怒って言ったのではなく、誰かが「〜ですか?」と発言されたので、「〜なんだじゃないでしょうか?」と答えたら、返事が一切無かったので、単に「お~い。もしもし、聞こえてますか?」と言っただけで、別に普通の日常会話と同じレベルのやり取りだと考えています。電話で話をしている時に、こちらがずっとしゃべっていても、相手がずっと黙っているように感じたら「ねぇ、聞こえてる?」と訊ねるのは普通のフィードバックですよね? それでも返事がなければ、電話を一時って掛け直してみるとか、色々やるじゃありませんか。あるいは相手から「ごめん。宅配便の業者が来てた」とか説明があるかも知れません。単にそれだけのことで、プレッシャーだとかお礼の強制だとか、そんな大袈裟な話じゃないでしょうと思っています。(それに対してこういう掲示板では「いや、私には強制に聞こえた!」という反論もあるかも知れません。しかし、これまた日常生活と同じで「あ、それは誤解です。そんなつもりで言ったんじゃありません」と説明して終りでしょう。たまに「いや、やはりあれは強制だ」と諦めない方もいらしゃるでしょうが、当人がそんなつもりじゃないと言っているのですから、それ以上議論してもしょうがないと思います。それ以上行くと、もう「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の話になってしまいますから。)
まだ飛行機に乗っていないので検証できていないのかと思います。登録日と投稿日が同日で投稿数が1と言うこともありますので、どこに書き込んだのか迷子になっているのかも知れません。
あるいは、あの書き込みをされたのが出発当日で、その後、旅行の準備とかで、書き込んではしてみたものの、もう確認する時間が無くなってしまったのかも知れません。それまた現実世界の話と同じで、「あの人どうなっちゃったんだろうねぇ?」「さぁ? どうしてるんだろうねぇ。うまく乗れてたらいいよねぇ」なんて会話をして、それでおしまいでしょう。後日(例えば2か月後)、帰国後、あるいは滞在先で、「あ、そう言えば!」と思い出して、「ごめん、ごめん。もうこっちに来ちゃってます。問題なく持ち込めました」と報告すれば、それまたそれで「あ、良かったですね」で終りでしょうし、何も報告がなければ、それまたそれで日常の流れの中でそのような質問があったことは忘れ去られて行くわけでしょう。単にそれだけのことだと思っています。でも、日常的なコミュニケーションと同じで「どうしちゃったんだろうねぇ?」ぐらいはつぶやいてもいいでしょう? 「どうしちゃったんだろうねぇ?」は別に批判したりしているわけじゃあないわけで。そういう“好奇心”って、人間にとっては最も根源的なものではないのでしょうか?
私も「誰でも遠慮なく質問できる雰囲気であった方が、このボードのApple製品のよろずデータベースとしての役割をまっとうできるのではないかと考えます。」に同感です。
今回、このスレッドで発言されている方は、それぞれの意見はどうであれ、その点に関して言えば、全員が共通認識していることではないのでしょうか? ただ、修辞法で予断を与える技法がありますので注意した方がいい点もあります。例えば「誰でも遠慮なく質問できる雰囲気であった方が、このボードのApple製品のよろずデータベースとしての役割をまっとうできるのではないかと考えます」と明示することで、読者に「そうか、この人がそう言っている相手は、雰囲気を悪くして、質問者を怯えさせようとしているのか」という予断を与えてしまいかねません。あるいは、「そうか、ここは実はそんな恐いところだったのか!」と恐くて質問ができなくなってしまうかも知れません。(アガサ・クリスティーの『カーテン』はある意味で最高傑作だと思っています。)なかなか難しいところです。
いずれにせよ、ここで書き込んでいる方々は、NO9 さんもおっしゃっているように、誰もお金を貰って回答しているわけではないわけです。業務で応対しているのではありません。場合によっては間違いの答えをしてしまう場合もあるでしょう。また、人によって簡潔を良とする回答者もいるだろうし、詳しく回答する回答者もいるでしょう。脱線が多い回答者もいるでしょう(私のことだな)。で、質問者にしても、簡潔な回答の方を好む質問者もいるだろうし、簡潔だと理解できない質問者もいるでしょう。同様に、詳しい説明だと煩雑だと感じる質問者もいるだろうし、詳しい説明で助かったと感じる質問者もいるでしょう。色々な個性があります。これまた現実世界と同じです。自分とは違う考え方の人、自分とは違う性格の人。私自身は、そういう色々な異質な人々が集まってわいわいがやがややれるのが良いよねと思っています。自分のやり方や自分の性格とは多少(あるいはだいぶ?)違う人がいても、そういう人々を“容認”できる文化ができることがいいんじゃないかなと思います。
皆さん、ここでも、別の場所でも色々議論し合って行く中で、やがて自分とはスタイルの違う人の文章を読んでも「あ〜あ、いかにも○○さんらしい (^^)」と笑って受けいられるようになるといいんだけどなぁと常々思っています (^^)。
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