HAL さんによる書き込み:
例えるなら、言葉の不慣れな国に単身で放り込まれて通行人に道を聞いたら、発音が悪いだの文法が悪いだの言われるばかりで肝心の道を教えてくれないような感じで、その国に対するイメージが悪くなること請け合いです。
どうして HAL さんは、人の行動の裏に常にそのような悪意が潜んでいると想定されるのでしょう? いや、もちろん、「悪意」という表現はお使いではありませんが、そのように感じておられるのだろうなと、感じられます。
見知らぬ異国で道を訪ねた時に、例えば「ブダペスト駅はどちらですか?」と訪ねるつもりで、その外国人が「ブカレスト駅はどちらですか?」と訊ねてしまった場合には、現地の人はニコニコして、あるいは苦笑して「それはブカレストではなくて、ブダペストですね (^^)?」と指摘するでしょう。(実際に私は外国で「おお、日本人か! 私は日本に行ったことがあるよ。良い街だったねぇ。確か香港という街だった」と言われたことがあります (^"^;)。)普通、指摘された方が、「おっとぉ、失礼しました (^-^;)ゞ。確かにブダペストでしたね (^^;)」と反省こそすれ、相手に腹を立てることはないでしょう。(しかし、最近の日本人旅行者なら腹を立てるかもしれませんね。「ブカレストはここから千キロ近く離れている。ブダペストを言い間違えたに決まっているのに、あえて間違いを指摘した。ここのヤツラは皆意地が悪い (`0';)」なんて怒り出すのかな? 相手の国の首都名を間違えて礼を失したのは本当は自分の方なのに...。なんか、ありそうで怖い (^"^;)。)
その外国の例に戻りますが、都市名を間違えたことをやんわりと指摘された旅行者は結果的には道順を教えてもらって、都市名を間違えたことも、ある意味、懐かしい(楽しい)失敗、つまり“旅の良い思い出”として駅に向かったはずです。ところが、その旅行者が都市名を間違えた時に、その現地の人に都市名をやんわりと訂正されて、本人が反省していた時に、その現地の人と同行していた人が、あえてその旅行者に聞こえるように「おい、そんな意地悪言うもんじゃないよ。お前だって彼がブダペストのつもりでブカレストだと行ったことくらいわかってるだろう?」と言ったとしたら、何が起こるでしょう? せっかく親切にされて、感謝していたその旅行者は、「あ、この人たちは意地悪だったんだ!」と理解してしまい(もちろん、誤解です!)、実は正しい道順をきちんと教えてもらったのに、そのことは忘れて、不愉快な怒りだけが残ってしまうでしょう。それでは、せっかく善意で道順を教えてあげた方も浮かばれません。
HAL さんは、「多少の違いは容認すべきだ」との意見に対して「多少はね」とお答えになっています。つまり、「多少に関しては同意するが、あなた(ないしあの方)は、その多少をすでに逸脱していた」とおっしゃりたかったのだと思います。問題は、それは HAL さん個人の主観的な規準に過ぎないということです。仮に多数決を取ったとしても、それまた多数派の規準に過ぎない。人はみな自分自身を規準にして考えます。私も含めて、私ならそこまではOKだという線があっても(それは HAL さんにはすでに限度を超えていることになっているかもしれません)、私でも「それはちょっとやり過ぎ」と感じる線があります。人によってその境界線は違うのです。
ならば、何度も書いていることですが、ここでの規準は「善意」が認められるかどうかに尽きると思います。これ以外の規準を導入すると、恐らく収拾がつかなくなります。なぜならば人々にはそれまで生きてきて培った“生き様”、価値観、行動規準があるからです。
悪意が認められたら(勘違いかもしれません)とりあえず、やんわりと、質問者が萎縮しないようにソフトランディングの側面支援をする。表で注意することは、先ほども書きましたように、質問者に誤解(予断)を擦り込んでしまうことになりますから、避けるべきだと思います。
色々な人がいるのだから、色々な人がそれぞれの方法でソフトランディングできるおように支援すれば良いと思います。
その点で ni_ki さんのフォローはいつも傍で見ていて素晴らしいと感じています。トラブりそうになったら、決してそのことには触れず、さりげなく、何事もなかったかのように話題を続けていく。それこそ、まさにここで求められている振る舞い方ではないでしょうか?
日本語を学んだ外国人は自分たちの言語にはない「肩凝り」という言葉を覚えてから、肩が凝ってしょうがなくなったと嘆きます。ハンガリー人のシェイェ・ヤーノシュが「ストレス理論」を発表してから、世界中の人たちは自分たちがストレスに晒されていることに気付いてしまい、それ以来、ストレスに悩まされるようになってしまいました (^^;)。同様に、質問者の面前で、ある回答者に対して「それは質問者を傷つけます」とか「不快にさせます」と指摘することは、相手の親切を喜んでいた質問者に対して(もちろん、喜んでなかった質問者もいるでしょうが)「この人は意地悪なんだよ」という予断を刷り込ませる行為になります。そうは思いませんか?